前回紹介した葬儀写真集は時系列に従って葬儀を写真で記録したもので、それぞれの写真にはキャプションが添えられています。これが時代を下ると、肖像写真からキャプションが消え、説明がなくなっていきます。このことで肖像写真は死者の象徴的イメージである「遺影」として成立していったのではないか、というのが、国立民俗博物館の山田慎也さんの見立てです。(『遺影と死者の人格 : 葬儀写真集における肖像写真の扱いを通して』 山田慎也 2011年)

『故澤田中尉葬儀写真帖』

 1917年(大正6)年に作られた『故澤田中尉葬儀写真帖』の肖像写真はキャプションなしで掲載されています。葬儀は神葬祭で行われており祭壇がありますが、「祭壇写真」は見ることができません。


大正後期から昭和初期にかけて、葬列(述べ送り)の習慣がすくなくなり、祭壇がメインとなる葬儀に変わっていきます。上の写真にみるよう、初期の頃は遺影である「祭壇写真」は飾られていませんが、次第にこれを飾る習慣ができてきます。

『住友吉左衛門友純の葬儀写真集』より「本邸ニ於ケル霊柩 其一」

 1927(大正15)年。『住友吉左衛門友純の葬儀写真集』には、「祭壇写真」が写されています。


小島写真館

 1923(大正11年)に東京大井で開業した小島写真館は現在も営業を続けてしていますが、初代の小島錦一郎が東京女子医科大学卒業アルバムを手がけるかたわら、葬儀の時、祭壇に写真を飾ることを提案しました。(小島写真館webサイト) 
「当時の主人が販路拡大を考えて、新聞の訃報に出る亡くなった有名人の遺族のところに直接出向き、葬儀の歳に祭壇に死者の写真を飾ることを提案したのがその始まりであったという。そのような中から祭壇にし臣を飾る葬儀が増えてくると、そこに参列した人の中から新たな葬儀を行うに際して遺影を飾ることを依頼するケースか増えてきたものという。また写真をとることが専門の写真館に任される時代に始まった葬儀に遺影を飾る習俗であるが、そこに飾られた遺影は、葬儀終了後、葬家に引き渡されることになり、それが仏間の鴨居や仏壇の中などに飾られることになったものと思われる。」(『いま、この日本の家族 絆のゆくえ』鈴木岩弓他 2010年)とあり、これが関東での祭壇写真の創始となります。


 『遺影・追悼・顕彰の近代』矢野敬一 には、名古屋での祭壇写真の記録が次のように記されています。
「一般の物故者での遺影写真の普及について知る上で参考となるのが『一柳葬具本店創業百年史』だ。一柳葬具本店は名古屋有数の操作異業者である。-中略-葬儀の場面に遺影写真がはじめて登場するのは1922(大正11)年。名古屋鉄道社長で貴族員議員も務めた人物の葬儀がそれで、遺影は自宅祭壇の右側に写し出されている。その後掲載された写真から遺影の確認はできず、再び写真に現れるのは1929年(昭和4年)まで待たなければならない。この年以降、ほぼ全ての祭壇の中央に遺影写真を見いだすことができるようになる。」

 総じて、祭壇に故人の写真を飾る「祭壇写真」の風習は、葬列の記録写真を作成していた葬儀社と写真館の主導で、大正後期~昭和初期にかけて、ビジネス拡大を目的として人為的に作られたものと考えてよいでしょう。
 葬儀の主体が「葬列」から「祭壇」に移行した時代であり、人生の晴れ舞台で写真を撮る習慣も普及していたことが、「祭壇写真」が普及した社会的背景です。ただし、「祭壇写真」そのものに宗教的・儀式的な要請があったわけではないこと、そしてこれらの写真は「遺影」のために準備されたものではなく、人生の晴れ舞台で撮影された写真が「遺影成り」をしたものだということは、再確認されてよいことです。

 続きます。