※本稿は2017年9月3日の投稿を加筆修整したものです。

エンディング産業展ガイドブック表紙
2017年8月に東京ビッグサイトで開催された「エンディング産業展」は、テレビの報道番組やワイドショーでもそこそことりあげられ、いわゆる「エンディング」に関して一般の方々にも関心が高まってきたような気がしました。左はそのガイドブックです。
この中身は出展社の一覧なのですが、ちょっと目についたのは、裏表紙にあるアスカネットの広告です。アスカネットといえば、写真集制作の「アスカブック」や、空中に浮かぶように写真のイメージを表示する「エアリアルイメージング」などでも知られますが、もともとはインターネットを使って全国から遺影の元画像を転送し、その背景や衣装を画像編集してちゃんとした遺影を制作する「メモリアルデザイン・サービス」で大きくなった会社です。前回も紹介したよう、今や全国の葬儀の30%程度の遺影はアスカネットが手がけているそうです。ある大手の葬儀屋さんの担当から聞いた話でも、品質もよく、コストが低く抑えられるのでここに頼まざるを得ない、というような状況でもあるようです。
ともあれ、話題の広告がこちら。
裏表紙のアスカネットの広告

「愛する思い、最高の一枚に。」
いいコピーですね。
そして「この少年の肖像画は約2000年前に、ローマ帝国治下のエジプトで葬儀用として描かれたものです。時代が変わっても、故人を大切に思う気持ちは変わりません。」から、「遺影」に結びつけていく説明がアスカネットのサービスの説得力を増します。この肖像画について調べてみます。

「ミイラ肖像画」でした

詳しく知りたい方は、wikiのこちらを。

「ファイユーム」の位置
●この絵が発掘されたのは、エジプトのファイユーム。場所はこちら。なので、「ファイユームのミイラ肖像画」として知られている。
●描かれた時期は、紀元前1世紀(30年頃とも)~3世紀半ばころで、約900点が発掘されている。
●木の板に蜜蝋や鶏卵の支持体を使って描かれ、埋葬者(ミイラ)の身体に巻きつけられていた帯状の布に差し込まれていた。
●当時のエジプトは、アスカネットの広告にも記されているよう、ローマ帝国治下(wikiではギリシア・ローマ属州時代とある)で、肖像画を描く文化や技術はローマあたりから入ったものではないか?
●ミイラ肖像画が持つ宗教的意義は解明されておらず、葬送儀式との関係性も明らかになってはいない。

ミイラ肖像画のページから
「肖像画」のページから
で、このページの下を見ると、アスカネットの広告に使われていた画像に似ているものが見つかります(左側)。でも、背景の色などがちょっと違います。

「肖像画」のページには、そっくりな画像(右側)がありました。上と同じ絵に違いなさそうなのですが、どういう事情なんでしょうね。描写を比べると、右がディテールがしっかりしていますので、左はその模写か複写のし損ないではないかと思ったり。

しかしまあ、これがアスカネットの広告に使われていたものであることは確かです。

ちょっと詳しく

wikiからの引用で構成しています。

描かれた人

●ミイラ肖像画に描かれている人物は、若くして死去したと思われる者が多く、子供も多く描かれている。スーザン・ウォーカーは2000年の著作で「コンピュータ断層撮影によって、実際のミイラの没年齢と性別が明らかにされ、添えられているミイラ肖像画との関係性がはっきりとした」としている。ウォーカーは、ミイラの年齢分布から、当時の平均寿命が短かったと結論付けた。

●ミイラ肖像画の制作依頼者は、軍人、公務員、高位神官などの裕福な上流階級だったと考えられている。ミイラ肖像画が添えられることなく埋葬されているミイラも数多い。フリンダーズ・ピートリーは自身が発見したミイラのうち、ミイラ肖像画とともに葬られていたものは、1、2パーセントにすぎなかったとしている。

いつ描かれたか

●ミイラ肖像画は、家に飾る目的で生前に制作され、モデルとなった人物の死後にともに埋葬されたものであると、長い間考えられていた。しかしながら現代ではモデルとなっている人物の死後に描かれたものではないかとされており、生前に描かれたものとは考えにくい肖像画も発見されている。
●ミイラ肖像画は生前に描かれたもので、ギリシアの伝統的な風習のように家に飾られていたのではないかと考えられていた。しかしながら、ミイラのコンピュータ断層撮影によるウォーカーの指摘以降、この説は広く支持されてはいない。

技法

●支持体に使用されている板には石膏が下塗りされていることもあり、この石膏層から下絵が見つかっているミイラ肖像画も存在している。ミイラ肖像画の制作には、蜜蝋を用いたエンカウスティークと、鶏卵を用いたテンペラの二つの技法が採用されている。

●ファイユームで出土したミイラ肖像画から、作者たちの芸術的技能や人物描写の絵画的技量が多岐にわたっていたことがうかがえる。肖像画に見られる自然主義表現から、当時の芸術家に解剖学的知識があったことと、光と陰を描きだして人物像に三次元的な効果を与える技法を持っていたことが分かる。肌の表現は一定方向からの光源がもたらす陰影で色調がつけられている。

ミイラ肖像画と「遺影」

ミイラに巻き付けられた様子がわかる
左の図を見ると、肖像画の回りにミイラを巻いていた布らしきものが見えます。顔と肩の形状のように見えますので、ちょうどミイラの顔のあたりに肖像画を置いて括りつけていたのではないかな、と想像できます。いってみれば、ツタンカーメン王に代表されるミイラマスクの廉価版という位置づけでよいのではないかと思います。

ミイラが「永遠」の保存を意図するものと言われますが、その見栄えは大きく変貌してしまいますから、そこに生前の姿形を彷彿とさせる「マスク」をかぶせたくなる気持ちは、私にはわかります。やるやらないは別にしても、多くの日本人にも理解はできるのではないでしょうか。もちろんですが、ミイラマスクの下にはミイラ=死体があるわけで、だからこそ、顔の上に何かをかぶせたくなる。これはいわゆる「打ち覆い(うちおおい)/遺体の顔に載せる白い布」と同じ、といっても言い過ぎではないような。

とすれば、「ミイラ肖像画」を「遺影」と同列に考えるのは、ちょっと違うかな、と思うわけです。もちろんどちらも、死者を悼む気持ちから派生したものであることは違いないのですが。