そういえば、こんな記事『駅前写真館の冒険10.「遺影」を考える』を書いていたことを思い出しまして。
1999年、コニカが主催していた写真クラブの機関紙『フォトコニカ』での連載企画です。ちょうどこの前年に、新宿のコニカプラザで『笑う寿像・展』を開催させていただいておりまして、その顛末を記したのです。
19年前ですよ。なんだか、同じことを繰り返しやっているような・・・。
閑話休題。
「遺影」は、「遺す」と「影」でできていて、この影には通常の意味以外に「人の姿」の意味がありますから「遺影」は字義上「人の姿を遺したもの」となります。「人の姿」が写っているものですから、広義にいえば、全てのポートレート/肖像写真は、「遺影」に含まれます。スナップ写真でもかまわないし、肖像画や似顔絵であってもかまいません。
問題は「遺影」の「遺」であって、どうしても、「遺産」「遺骨」「遺書」などから連想するよう、当の本人が既に亡くなっているか、亡くなることを予定されているところに、心理的抵抗を感じるのでしょう。ただ一人の例外もなく全ての人はいつか死ぬ。この当たり前の事実が、いかに真実であったとしても、やはり目を背けたくなるのが人情です。
余談ですが、「遺」のつく単語を「漢字ペディア」から引いてみます。
- 遺愛(イアイ) -故人が生前大事にしていたもの。「父の―の花瓶を飾る」
- 遺詠(イエイ) -①死にのぞんでよんだ詩歌。類辞世 ②故人ののこした未発表の詩歌。
- 遺影(イエイ) -故人の生前の写真や肖像画。「―を自室に飾る」
- 遺戒・遺▲誡(イカイ) -故人がのこしたいましめ。遺訓。「ユイカイ」とも読む。
- 遺骸(イガイ) -のこされた骸(むくろ)。遺体。なきがら。
- 遺憾(イカン) -思っていたようにならず、心残りのさま。
- 遺業(イギョウ) -故人がのこした事業や仕事。「―を継ぐ」「先人の―をたたえる」
などなど・・・・。全般的に、人の死にまつわりますが、覚えておくと何かと使えそうです。他にもたくさんありますので、ぜひこちらから。人の死とはちょと違う意味で使う単語は下記が見つかりました。
- 遺賢(イケン) -才能に恵まれながら認められず、民間に埋もれている人。「野(ヤ)に―なし」
- 遺伝(イデン) -動植物で、親の形態や性質が遺伝子のはたらきによって子孫に伝えられること。
- 遺忘(イボウ) -わすれること。忘却。
- 遺漏(イロウ) -もれ落ちること。見落とすこと。手ぬかり。
なんといいましょうか、いずれもかなり残念な感じではあります。かろうじて「遺伝」だけは、いい意味でも使われることがあるくらい。あと、「遺忘」もいいですね。忘れることも大事です。はい。でも、遺と忘が語義矛盾のような気配がするので調べてみましたら、「遺」の意味は、1)忘れる。とり失う。 が最初で、次に 2)おきざりにする。死後に残す。残る。 と出てきました。つまり、「遺」の一文字に、失うことと残すことが含まれているわけで、まこと死の回りの事象を現すのに適した漢字ですね。
つまるところ、今、一般に「遺影」といえば、既に亡くなった人の姿を遺した写真を意味しています。人によって多少の違いはあるかもしれませんが、肖像画や似顔絵は「遺影」に含まないのが一般的でしょう。またまた余談ですが、下のような単語もあります。
- 遺像(イゾウ) -①彫刻・写真・画(え)などで残された故人の像。②残像。
- 寿像(ジュゾウ) -生前に作っておく自分の像。
「遺像」の方が「遺影」よりも広義で使われ、こちらには立体物や脳内イメージ(描像)も含まれる感じです。これに比較するなら、「遺影」は平面物に描かれたものに狭まります。
「寿像」は、中国語由来のようで、生前に作ること+自分の像であることが、重要なポイントです。死に対して目をそらさない感じがにじみ出ています。というか、死も「寿」なんですな。と思って調べたら、日本語の「寿命」に近い意味あいで使われていて、「ことぶき」のめでたいことだけを意味しているわけではなさそうです。これで思い出したのが、この写真。
これでやっと腑に落ちました。
さて、またまた余談ですが、「遺影」の中国語は、「肖像死者」と出てきましたよ。マジか!? と思って調べ直したら、「遺影」「遺照」「遺容」「遺像」などが普通っぽいようです。
でもって、中国語の「寿像」の和訳は、「ライフイメージ」だって。それ日本語か!? ここの訳(google翻訳)はどうなってんだ?
閑話休題×2。
と、ここまで来た時にふと、「遺影」は、葬儀の時に使う写真じゃないの? と思われた方も少なくないはずです。
そう、「遺影」といえば、一般的には葬儀の祭壇の上に飾られる一枚の写真を指すことの方が多いです。漢字の意味からしても、ここまでの説明も違和感はないと思いますが、それはそれとして、実用的・具体的に「遺影」という言葉は、祭壇の上に飾られる写真を指すことが多いです。
誤解を避けるために、本稿ではこれを仮に「祭壇写真」と名付けておきます。で、親族の方の葬儀を経験された方は、「祭壇写真」を遺品の中から掘り出すのに大変な思いをされた方も少なくないでしょう。一枚の写真があればよいのですが、複数枚あったらあったで、親戚やらが口出しをして、あれはダメこれはダメ、とか・・。まあね、皆、本気の善意でやっていますから尚更大変で・・・。
ともあれ、こうして掘り出された写真(スナップだったり、誰かの結婚式の集合写真だったり・・)が「祭壇写真」として使われることになるのですが、しかし改めて考えておきたいのは、これらの写真はもともと葬儀や遺影が理由で撮影されたものではない、ということです。もともと「祭壇写真≒遺影」として撮られたわけれはない写真が、「祭壇写真」として使われるわけです。本稿では、これを「遺影成り」と呼ぶことにします。
平たくいえば、全ての人物写真は、写っている本人が亡くなった時に、「遺影成り」をして「遺影」になります。その中の一枚が、故人の代表、あるいは象徴として「祭壇写真」として使われるわけです。
ちなみに、故人の写真が一枚もない場合には、祭壇写真を使わなかったり、肖像画や似顔絵が使われることもあるそうです。先日、とある葬儀社の方から聞いた話では、写真が全く見つからなかった直近のケースで、お孫さんが描かれた祖父の絵が使われたことがあったそうです。本人が徹底した写真嫌いだったのでしょうから、これはこれでいい話で、「遺影」は写真でなければならない理由もありませんから。なにより、「お孫さんが描いた」という事実が泣かせます。
では肖像画は? と連想して考えるわけですが、本格的な肖像画は、本人が健在であってもモデルとして画布の前に立ち(座ってもよいですが)続けるわけにも行きませんので、写真を参照して描くことが多いようです。その上で、親族や遺族の方から、写真写りとは違う印象を詳しく聞き、性格なんかもそれとなくわかるようにして描きます。いざどなったら、写真はなくても、どこの部分は誰に似ているとかいうことでも描けます。言い方は悪いですが、いわゆるモンタージュですな。
しかしまあ、本格的な肖像画は、なにせ時間が必要です。生前に準備しておかない限りは、死亡~葬儀の間に描くのは至難の技、滅多なことではやらないことだそうです。
ともあれ、言葉の整理をしておきます。
もっとも大きな集合が「絵画・写真」であって、この中に、「肖像画・肖像写真」が入り、本人が亡くなられた時にその一部が「遺影成り」をして、「遺影」になります。これら遺影の中で葬儀に適したイメージの1枚が「祭壇写真」に昇格する、という次第。
さて、では日本における「祭壇写真」は、いったいどのようにして成立していったのか? を、肖像画方面からひもといていきましょう。