『人口の心理学-小史恒例社会の生命と心』 柏木惠子/高橋惠子 ちとせプレス から、気になる部分を。

遠野地方の供養絵額(77ページ~)
(前略)
『死霊は個性を失い、祖霊という集合体に融合・帰一する。祖霊は村を見下ろす丘の上や天空にあって、子孫の暮らし向きを見守る』と考えられていたといいいます。供養絵額の死者たちは、この姿も個性もない集合霊としての祖先とはおよそかけ離れた、個性も姿形も現世そのまま来世に引っ越したような想定です。想定、というよりは願望なのでしょうけれども、この世の生活をあの世に移動させただけのような来世観は、人々の現世に対する愛着を感じさせます。
 かつて波平恵美子は、伝統社会では再生信仰が家意識と結びつくことで、生命の連鎖の中に自分の生を位置づけるような民衆社会の生命観が生まれていたと指摘しています。その上で、「一回限りの生」という近代的な生命観が、生命の連鎖の中に自分の生を位置づけるような庶民の生命観を凌駕するプロセスは、長い時間をかけながら進行したと指摘しています。この議論の文脈で考えるなら、「供養絵額」の世界観は来世を想像する点ではまだ伝統的なものの、現世の生活に執着するという内実においては近代的な生命観の一歩手前まで来ているとみることができます。

死者はどこに?(230ページ~)
 (前略)
 2000年に妻を肝臓がんで喪った作家城山三郎さん(1927~2007)について次女は、「現実の母と別れ、永遠と母と生きていく、自分の心の中だけで」「仏壇にも墓にも母はいない。父の心の中だけに存在していた」と書いています。また、2007年に妻を肺がんで亡くした国立がんセンター名誉総長の垣添忠生さん(1941~)は、「私の心の中では、妻は墓の中でなく、私のそばにいた。写真と花々を飾っている家の祭壇が、私にとっての妻の居場所だった」「居間にも置いていた妻の写真に向かって、その日の出来事を心の中で語りかけつつ、一緒に飲み、食す」と描写しています。
 死者は私たちがいてほしいと願うところに、いてくれるのではないでしょうか。そういうことができるのは、現身を離れた死者の特権です。