承前。

 写真の技術が一点もののダゲレオタイプから、複製可能(ネガ-ポジ方式)な湿板写真になって、写真はビジネスとして成立・普及していきます。風景などを撮影し、記録とて使うようなことも行われ始めますが、ここでの話題は「写真館」です。まずは海外事情から。

ナダール撮影による舞台女優 サラ・ベルナール。1864年
ナダールのセルフポートレート。
この画面のリンクからナダールの美しい写真の多くを見ることができます。ぜひ。

 1854年のパリ、風刺新聞を発行し戯画家として名を知られていたナダールは、サン・ラザール街に写真スタジオを開きます。複製可能な湿板写真の技術革新が進み、パリ中に写真館が開設され、肖像写真の撮影がブームになっていた時代です。
 当時の肖像写真は肖像画のように背景の書割りや小道具などで社会的地位にふさわしい演出がなされるのが一般的でしたが、ナダールは無地の布を背景として立体的な陰影をほどこし、人物の姿を強調しているのが特徴です。被写体の人物のポーズはそれまでの伝統的な肖像画のように、身体を斜めにして視線を正面に向けたものが多いですが、かしこまっておらず、ごく自然に見えます。(『肖像の百年-ルノワール モディリアーニ ピカソ-』ポーラ美術館 2009年)

上野彦馬の弟子である井上俊三が撮影した坂本龍馬。1865~7(慶応2~3)年頃。
上野彦馬。


 日本では、1862年(文久2年)に、上野彦馬(ひこま)が『舎密局(せいみきょく)必携』を著し、長崎で上野撮影局を開業します。同じ年、横浜で下岡蓮杖(れんじょう)も写真館を開業します。これらが日本で初めての営業写真館となります。下岡は箱館戦争や台湾出兵などの巨大なパノラマ画を描いた画家としても知られ、その作品は遊就館に納められています。

 この時代、日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客のほとんどは外国人でした。そして写真館に来る外国人は和服和装姿や甲冑姿で写真を取るのを好みましたが、着物を左前に着たり、屏風の傍らに石灯籠を配するなど日本の風習を無視する者も多くいました。蓮杖は注意しますが外国人は応じず、そのうち諦めて撮影するようになります。この時期の写真にしばしば見られる奇妙な日本風俗写真は、こうした経緯で制作されたのです。(wiki「下岡蓮杖」より)

徳川慶喜

 ところで、江戸から明治へと時代が大きく変わるこの時代に、写真術はますます普及していきます。1867(慶応3)年頃には、将軍 徳川慶喜も写真に収まります。彼の写真は10数種類見つかっており、維新後は自らが風景や人物などを撮影するようになります



 ここで紹介した有名人の写真は「遺影」とは言い難いですが、後世の人々に彼ら彼女らの面影を伝えるという意味においては「遺影」といっても間違いにはなりません。とういうか、それこそが「遺影」だと、ここでは話を進めます。

 逆に、こうした著名人の肖像写真は「遺影」ではない、という根拠の一つはおそらく、これらの写真を撮影した本人並びに家族が、それを「遺影」として撮影したわけでないこと、あるいは祭壇に飾られた「祭壇写真」ではないことを挙げるでしょう。しかし逆に問えば、現在の「祭壇写真」のほとんど全ては、本人が遺影として撮影した写真ではなく、生前に(遺影とは関係なく)撮影された記念写真やスナップです。そして、遺影は生前に自分自身で撮るもの、というように考え始められたのは、ごく最近のことであって、しかも現代の日本でそれを実行している人は、全死者の5%程度に過ぎませんから、ほとんど名目として語られているだけなのが実態です。
 また、葬儀に「祭壇」が使われるようになったのは、明治後期~大正になってからです(いずれ後述します)。最近では、逆に祭壇を使わない葬儀、というもの増えてきており、ここでは「祭壇」はないけれど、「遺影」として一枚あるいは数枚の写真が飾られます。こうした意味では、将来的には、祭壇がなくなって、「遺影」だけの葬儀、になる可能性だってなくはありません。
 と、ここまでの考え方は「葬儀」は血縁者によって営まれるもの、という前提がありますが、「お一人様」がどんどん増加する将来には、血縁以外の人の方が故人をよりよく偲んでくれることも多くなるでしょう。とすれば、有名人を代表(象徴)する一枚の写真と同様、懇意にしていた知人・友人・アイドルを代表(象徴)する一枚の写真を「遺影」と呼ぶことに、躊躇はありません。

 しかし、そうはいっても、いつのまにか一枚(あるいは数枚)の写真が、故人を代表(象徴)するイメージとして理解されるようになったのはなぜか? そしてその写真が「祭壇写真」として葬儀に使われるようになったのはいつ、どのようにしてなのか? 葬儀の後で、故人を偲ぶために鴨居の上や仏壇の中や、テーブルの上に飾れるようになっていったのはなぜか? を掘り起こしていきたいわけです。

 それにしても、ダゲールの肖像写真と日本のそれを比較すると、審美的にも技術的にも肖像画に関する意識の違いを見ることができますね。当時を考えると、西洋には王侯貴族の肖像画を残す歴史があり、絵画としてポーズや光に工夫を凝らしてきた歴史があります。翻って日本でも、大名などの肖像を残す歴史がありますが、このありかたは西洋のそれとは大きく違っています。このあたりも調べてみたいと思うのですが、先を急ぎます。

 といいつつ、ちょっと余談。

 写真が普及し始めたて間もない1862年、アメリカの交霊術師が、写真家が撮影した自分の写真に12年前に亡くなった兄に似た男が写っていることを公表しました。これを皮切りに、写真スタジオで撮影する「心霊写真」がブームになります。1874年にはフランスで、1879年には日本でも同様のブームが起こります。これは現在のように人を脅かすことが目的ではなく、死に別れた人との再会を心霊写真に期待していたと考えたほうがよいでしょう。当時最先端の技術である写真を使って、今ここに死者が存在することを証明するわけですから、相当な説得力を得られたはずです。
 こうした死者に再会したい要求は、現在の「遺影」にも少なからず期待されているはずです。どのような無神論者でも、愛する人の写真の向こう側に、その実体なり、魂なり、霊といった何かを感ることは紛れもない事実です。

図書館のソファーに座るCombermere卿の幻霊、1891年撮影 イギリス

 時代は下りますが、例えばこんなの。
 写真の技術についての知識がある人であれば、多重露光や長時間露光で撮影したものであることは自明です。しかし、技術的な理解ができない人にとってみれば、これはまさに「目に見えない不可思議な対象が写っている写真」であって、なおかつ、愛する人を失った人であったりするなら、ここに「心霊」といいますか、まさに「本人の写り代わり」を見ることに何の不思議もありません。


 人は見たいモノを見ることができます。---ここに、人が死を恐れたり、葬儀を営んだりするなど、動物との違いの元があるんではないでしょうかね。

 もう一つ余談。

 1980年頃の写真評論では、ヴァルター・ベンヤミンのアウラ論がとりあげられることが多くありました。ベンヤミンは『写真や複製技術時代の芸術作品においてはアウラが凋落すると指摘している。そのアウラの内容については、「エロス的な欲情を喚起するような対象が発するものであり、幼年期に特有の至福の神的経験において現れる対象がもっているような性質」、「われわれが芸術文化にたいして抱く一種の共同幻想」、「同一の時空間上に存在する主体と客体の相互作用により相互に生じる変化、及び相互に宿るその時間的全蓄積」等、様々な学説が提出されている。』などなど・・・。
 しかし今、よくよく考えると「アウラ」は、Auraのドイツ語読みです。英語で読むと「オーラ」。権力者や有名人、あるいは霊感のある人に感じることがあると言われる「オーラ」です。
 堅物の評論家や写真家や芸術家が心霊写真を毛嫌いするのは、まさに自分たちこそが霊媒師や心霊写真家と同根だからだったのでしょうね。
 ドイツ語で「アウラ」と読むことで、まさに「オーラ」を演出していたという。

 続きます。