承前。今回は、明治天皇の御真影の話ですが、当時の写真技術の話から。

 1871(明治4)年、イギリスのマードックによって乾板写真が発明されます。湿板と同じようにガラスに感光材料を塗りますが、乾燥した状態で保存、撮影できるようになったことが最大の特徴です。これより、感光材料の作り置きができるようになり、1878年には工業生産が開始されます。コダックは、1880年に乾板の商業生産を始めています。
 感度も高くなり、大量の乾板を屋外に持ち運びながら撮影することが可能になりましたので、記録写真も多く撮られるようになります。また参入障壁が下がった写真館は、さらに隆盛していきます。
 次いで、1881年にはガラスの代わりにニトロセルロースに感光材料を塗布した「写真フィルム」が登場します。柔らかい素材なので丸めて収納でき、連続撮影が可能になりました。これが映画の発明につながります。また、写真技術がさらに普及し、アマチュア写真家も登場するようになっていきます。

 こうした時代に日本では、明治天皇の肖像画を複写した写真が、御真影として使われるようになりました。この事情を時系列で整理していきます。

束帯姿の明治天皇
(内田九一撮影 1872年)

 日本が開国し、海外の要人との付き合いが始まるようになると、日本の元首である天皇の写真を求められるようになります。そこで、明治天皇の写真が撮影されることになり、1872年(明治5年)、上野彦馬に写真を学び、浅草に写真館を構えていた内田九一(くいち)によって、明治天皇・皇后・皇太后が撮影されました。この天皇の写真は二種類あり、1872年束帯(そくたい)と、直衣(のうし)に金巾子(きんこじ)です。(『天皇の肖像』多木浩二 1988年)

内田九一撮影による軍服の明治天皇 1873年

 その翌年、1973(明治6)年、内田九一によって軍服の明治天皇が撮影されます。この写真には足の開き方、手の位置の異なるバリエーションがあります。

 ちなみにこの年、明治政府は火葬禁止令を出し、2年後にこれを廃止します。


高橋由一による「軍服の明治天皇」
高橋由一「鮭」

  1874(明治7)年は、画家のウゴリーノによって、内田九一の写真をトリミングした座像の絵が描かれます。そして1879(明治12)年に、この絵を元に高橋由一(ゆいち)が七分身立像の油絵(七分身立像)を描きます。彼は、「鮭」の絵で知られる日本初の洋画家です。


明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」
明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」

高橋由一が上の絵を描いた1879(明治12)年、面白いことに、明治天皇は「深く親愛する群臣の肖像写真を座右に備えようと,その蒐集を宮内卿に命じ」られます。「そして,宮内省主導のもと,大蔵省印刷局が撮影や写真帖の制作を担当し,この事業は進められました。」 これは、『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』としてまとめられます。「現存するこの写真帖の総冊数は39冊,有栖川宮幟仁親王を始め皇族15方,諸官省の高等官ら4531名が収められており,そこには,幕末から明治維新にかけて,改革に奔走し,新政府の成立に尽力した人物に加え,各分野で日本の近代化を担った人々の姿があります。」こちら参照。

いくつかの文献には、明治天皇は写真嫌いだったので、写真ではなく絵に描かれたとかいう具合に書かれているのですが、この写真帖の経緯を素直に受け取るなら、決して写真嫌いではないような気がします。



この頃、『写真必用・写客の心得』(松崎晋二1886年)など、写真に撮られる時の心得(姿勢など)を記した本が多く出版されます。これには写真館や写真師の選び方、衣装やポーズ、視線など、子細に渡ってよりよい写り方が説明されている他、写真の保存方法なども紹介されています。写真館で写真を撮る客の階層が広がると同時に、写り方の形式が共有されていくことになります。

コンテ画を写真撮影してできた、最も有名な御真影 「大礼服写真」 1888年

 さて、ここまでの明治天皇の写真は、対国外に対して準備されたものですが、この頃から国民に対して天皇制統治を視覚的に認識させるために、天皇の写真が全国の学校などに下賜されるようになります。この目的のために、お雇い外人で紙幣の原画の意匠・彫刻・印刷たずさわっていたイタリア人であるエドアルド・キヨッソーネによって天皇を隠れて観察し、コンテ画(擦筆画)が描かれます。この画を内田死後の宮廷写真師であった丸木利陽(りよう)が1888年に写真に撮影・焼き付けをし、これが公式な「御真影」とされました。この写真は正規の下賜ルート以外に、非正規なルートを経て多く複製・販売され、最も有名な御真影となっていきます。

 ちなみに、御真影という言葉は、教育界をはじめ社会的に慣用された天皇・皇后の公式肖像写真の通称で、宮内庁(省)は戦前・戦後を通じて公式には「御写真」と呼称しています。(『続・現代史資料8 教育 御真影と教育勅語』みすず書房 1994年)

ボカシで写真のような階調を表現します
コンテ絵に使う道具

ちなみにコンテ画(擦筆画)とはカーボン(コンテ)を、紙製の軸や脱脂綿などで擦りつけるようにして濃淡を描く技法です。輪郭を描かなければ、モノクロ写真に酷似した描写にできます。(撮影協力 吉田肖像美術)



 全国の学校などに下賜するためには大量複製が可能な写真が適していただけかもしれませんが、コンテ画がモノクロ写真の階調に酷似しているため、これを実際に撮影された本物の「写真」と勘違いさせる効果もあったはずです。後に、政治的色彩を色濃く反映する御真影として神格化されることになったのは、写真の「信憑性」と同時に、同じイメージを国民の多くに共有させるために「複製性」が有効であったためでしょう。

 しかしまあ、上に掲載した「大礼服写真」を、解像度の低い写真、あるいは、何度も何度も複写が繰り返された結果、という具合に勘違いしていたのは、私だけではないはずです。その程度には、とても写真的な「絵」ですし、なにしろ宮内庁の正式な呼称が「御写真」なのですから仕方ありません。

 では「絵」を複写したものを「御写真」と強弁する理由とは何なのでしょう。一つは、先に述べたよう「明治天皇は写真嫌いだったから」なのですが、本当にそうなのでしょうか? フォトグラフィーの写真ではなく、真実を写す「写真」という理解もできなくはないのですが、これは詭弁に聞こえます。どちらかというと、海外の要人たちの写真と比較した時に、もともとの体型の違い、ポーズのとり方、照明や構図を含む撮影方法の未熟さ、などから、どうしても「見劣り感」を覚え、それを補うための「忖度」だったのではないかなぁ、と勘繰ってしまうのですが、どうなのでしょうね。

 続きます。