承前。ちょっと歴史の復習から。

 明治元年---戊辰戦争(新政府側の戦死者3550人・旧幕府側の戦死者4690人)
 明治4年---戸籍法
 明治6年---火葬禁止令
 明治8年---火葬禁止令の廃止
 明治9年---廃刀令
 明治10年--西南戦争(新政府側の戦死者6400人/旧薩摩藩士族の戦死者6800人)
 明治22年--徴兵令(1945年(昭和20年)に廃止)
 明治27年--日清戦争(日本の戦死者1万3800人/清の戦死者3万5000人)
 明治37年--日露戦争(日本の戦死者11万5600人/ロシアの戦死者4万2600人)

※戊辰戦争の戦死者数につていはこちら。西南戦争の戦死者数についてはWiki。日清・日露戦争のの戦死者数についてはこちらを参照。

 戊辰戦争や西南戦争は内戦ですから、日本として勝った負けたということではなくて、まさに勝てば官軍。勝った方が自分たちを正当化して、負けた方は賊軍としてひどい扱いを受けます。
 これとは違って日清・日露戦争は、対外国との戦争ですから、その戦死者は、「お国(日本)のために」という目的をもって顕彰される/されなければなりません。そうしないと、国民が政府に対して不信感をもつことになるでしょう。
 面白いというか、おそらく現在にまでその失政が尾を引くことになる「火葬禁止令」は、たった2年で廃止。
 明治9年に国民(武士だけでなく農民も刀をもって闘争できたという話もあり)から刀を取り上げ、22年から徴兵制をひく。そして、27年の日清戦争。 
 それにしても戦争の死者数の増加に注目。こういうのを見ると、ただの「数」に感じてしまいがちですが、この一人一人には、親がいて子がいて、愛する人がいて、友達がいて、先輩や後輩がいるのです。

 さて、こうした見取り図をもちつつ、話は「遺影」に。

福沢諭吉 1891年頃

 明治も中盤の1891(明治24)頃、一万円紙幣(昭和59年)の元絵として知られる福沢諭吉の写真が撮影されています。この写真の撮影者などは不明で、写真館がかなり普及していたことの証左と言えます。


 さて、日本に活版印刷が入ってきたのは1869年頃。網点を使って写真の濃淡を表現する技術は、1886年、アメリカのルビー兄弟によって実用化されました。また、写真を社会的な記録(ドキュメント)として活用することも広く認識されていきます。この一つの大きなテーマは戦争で、1894(明治27)年には、陸軍測量部員小倉倹司らの従軍撮影による雑誌『日清戦争実記』(博文館)が出版されます。

日清戦争の主要人物 1894(明治27)年

日清戦争 戦死者の肖像-『日清戦争実記』第37編(博文館/1895年8月27日)



 これはおおいに好評を博し、増刊を重ねることになります。好評の原因は、始めて写真銅版を使用したことと、巻頭に主要人物の肖像写真を飾り、次に戦局地図を載せて、本文は戦争の経緯を詳述したことでした。※『日本の出版 第7回 “明治の出版王” 大橋佐平と息子 新太郎』
後に、『日清戦争実記』には、戦死者の顕彰のために図19のような戦死者の肖像写真も掲載されるようになります。


「銘旗、香炉持、位牌持『功道居士葬送図』より」1891(明治24)年

 ここで、当時の葬儀事情について少し触れておきましょう。この頃の著名人の葬儀は、大々的な葬列をともない、それを絵巻物などにして記録する習慣がありました。図20はその一つで、明治期の大阪堂島の米取引で全国首位の取引をした人物である藤本清兵衛の大々的な葬列の状況を記録した巻物です。従来の絵巻と異なり,行列の向きは巻頭に向かっており,絵巻の時間軸が逆になっているのが特徴です。※『遺影と死者の人格 : 葬儀写真集における肖像写真の扱いを通して』 山田慎也 2011年


 こうした大々的な葬列には反対論もあり、1898(明治31年)の『葬儀論』山下重民には、「葬礼は夜間に行なうべきものであって、日中に行なうものではない。現在日中に葬送をするのは、儀式の華麗さを誇示せんがためであって、遺体を入れた棺を日光にさらすことは、タブーを恐れない振舞いである。心ある者は必ず夜間に葬送すべきである。1には日光をはばかり、2には華麗を示す奢りをはぶき、3には古の法に従うことになるからである。」などと記されています。

 また、1901(明治34)年に中江兆民が死去しますが、「死んだらすぐに火葬場に送って荼毘にしろ」と遺言したために葬式が行われませんでした。しかし、彼の死を悼んだ人たちによって青山葬会場(青山墓地)にて宗教儀礼による葬儀の代わりとして無宗教葬が行われました。これが日本初の告別式といわれています。

奉納画(岩手県宮守長泉寺 所蔵)
(『近代における遺影の成立と死者表象』 山田慎也 より)

 1904(明治37)年に日露戦争が始まります。この戦争は、日清戦争と違って、膨大な戦死者を出します。これだけが原因でもないでしょうが、出征兵士と家族の記念写真などの撮影が急増します。
「東京小石川の梅田写真館は小川一真門下の盛業の写真館であったが、当時の記録によると明治35年の売り上げ年収は215円であったが、明治39年は461円となった。戦争という社会変動が写真館へ好況を与えた一例である。」※『写真館のあゆみ』日本写真文化協会 1989年より
 こうして撮られた肖像写真の一部は、奉納画として使われたり、自宅の鴨居の上に御真影と共に飾られたりします。

 写真が印刷可能になり、より大量に配布できるようになることで、政治的な利用が行われるようになります。また、日清日露戦争は、多くの戦死者を出したため、死者を国家的に顕彰する目的にとっても、肖像写真は使い勝手のよいメディアとなったことでしょう。また、遺族にとっても、不遇の死を遂げた親族を偲び、名誉な死として祀るのにも、「遺影成り」した肖像写真はなくてはならないものだったでしょう。
 ただ、中江兆民によって告別式が始められたり、尾崎紅葉が葬儀写真集を遺したり、葬儀自体も大きな変化を迎えるようになっていますが、この時代には祭壇に写真を飾る習慣はありませんでした。

 続きます。