「父」が創る登山用カメラザック『有限会社ラムダ』

会社概要

1982年(昭和57年)に設立。登山用カメラザックおよび、カメラケース、レンズケース、撮影用アクセサリー類の開発・製造を行なっている。過酷な登山での撮影にも耐えうる60リットルの大型ザックから、気軽なスナップにも使えるポシェットまで、全て社長である佐久間さんの開発、デザインによる。現在は、奥さんと2人の娘さん、そして2人のパートの5人の手により製造されている。山に入ればカメラを持っているほとんどの人が使っているという噂(?)もあるほど。

「山」という別世界。

だいたいをいうと疲れることが大嫌いな性分で、だからそもそも登山など眼中にない。それにもまして、昨今のにわかアウトドアブームに加え、日本百名山ブームにネイチャーフォトブームとかを耳にすると、ただ、それだけで辟易してしまう私である。

だから、ラムダのザックも名前だけは知っている程度でしかなかったし、知人から「山に登ればたいていの人が使っているよ」などと聞いても、いま一つピンと来るものはなかった。ところが、ひょんなことはあるもので、実物のザックを見て、触って、写真に撮る機会に恵まれたのである。実物とは恐ろしいもので、細部を観察し、実際に背負い、あれやこれやといじくりまわしている内に、それを創った人がそのモノに託した気持ちが、不思議と伝わってくるのである。

どんな人が、どんな思いで創ったのだろう? と、考え出すと、にわかに腰が軽くなってきた。聞けば、ラムダの社長、佐久間さんは、自身が山に登り写真を撮る経験を通して、本当に満足できる製品を自らの手によって作り出しているのだという。

しばらくして、本取材の件をFAXで伝えた後に直接電話をして、正直なところ、予め思い抱いていた期待は見事に裏切られたのだった。いかにも消え入りそうな声といえば失礼な話だけれども、本当に訥々としゃべる人なのであった。赤の他人に対しては押しが弱いと言えばそれまでの話だが、普通に話をしているだけでは、高校生時代から続く長い登山歴の中で幾度かは死と隣り合わせになった経験を持ち、そして63歳になる現在でも月に一度は山に登る。しかも、冬山や春山に入山する前の1カ月ほどは、数キロから10キロ程度の走り込みを行なうといった、そんな力強さを微塵も感じさせないのである。

恐ろしい人だと、後になって思った。

至高に上り詰めた経験のある人だけにできる仕業かとも思った。

そして、取材の日に手渡された雑誌『岳人(東京新聞出版局)』を読み始めて、これは困った話になったと、しばし考え込んでしまった。世界が違う、のである。少なくとも、私が知っている写真の世界とは、まさに天と地ほどの開きがあった。第一、小さな文字がぎっしり詰まっている。こんな雑誌は今時、少ない。山に登る人というのは、その豪放磊落なイメージとは裏腹に、徹底して言葉で考える人たちなのだと、初めて知った。そこには、哲学があり、小説があり、物語があり、社会学があり、民俗学があり、物理学があった。なんという、深遠さであろうか。

なんだか、少し寒けがしてきた。

新製品『霧ヶ峰』。細部にわたって行き届いた工夫は、まるで手品のようでもある。(これは現行品の製品写真です)
完成品がならぶ。基本的に見込み生産だという。
佐久間 博氏プロフィール (写真1) 1936(昭和11年)東京都中野区生まれ。中学生の時、小西六に勤めていた兄の手ほどきで写真を撮り始める。高校の同教生、内田 亮氏(現・シグマ常務/現在も冬山を一緒に登っているという)の父親である山岳写真家、内田耕作氏に連れられ北アルプスに登って以降、山の虜となり、波瀾万丈の末(?)、ラムダを設立。
看板がなければ普通の民家のようで、会社だとはわからないだろう。
入り口にいた飼い犬。
会社のロゴは、内田耕作氏の命名で、川口の福田さんのデザインによるもの。
閑静な住宅街にある普通の一軒家の一階が、裁縫室。
ミシンも佐久間さんが修理してしまうとか。

「父」なるものを想う

なぜ山に登るのか? と問われて、そこに山があるから、と答える。問う側にしても、答える側にしても、決して満足できる解答ではないのだけれども、ただ、そう答えるしかできない。それが山に憑かれた人々の本音なのかもしれない。佐久間さんもまた、そうであった。しかしまあ、誰だって、貴方はなぜ生きているのかと問われた時に、すらすらとわかりやすい文章で答えられるとしたら、そちらのほうがよほど怪しいことなのだ。

佐久間さんの経歴を聞くと、何が何だかわからなくなってくる。

19歳で工学院工業高等学校を卒業後、カメラの修理会社である浜野商会に入社。同じ歳に東京緑山岳会に入会。6年後、利尻岳合宿のために(!)、浜野商会を退社。後、義兄の経営する婦人下着製造販売会社に勤務。一時、大成功を見るが、9年後には会社の経営が悪化し退社。この時には、既に結婚もし子供もいた。後、岳友が経営する登山用具店、チョゴリザで冬山用品の製造部門を担当。この頃は岩登りこそはやめていたが、山の写真を撮り続け、町の写真クラブに所属して、モノクロを自分で現像していたという。そして、40代半ばを迎えた時、チョゴリザを退社。

家族を抱えた、山好きで写真好きの中年男はここを起点にして、現在に至るラムダを築き上げるのである。最初の内は、台所の板の間で生地を裁断し、自分でミシンをかけていたという。もちろん、ここ十年来の中高年の登山ブームに写真ブームという追い風があったことは確かではあろう。しかしながら、見事なまでの遠回りをしながら、その実、経験を全て今のこの一瞬に凝縮し尽くしているようには見えないだろうか?

もちろんラムダのカメラザックは、他に抜きんでた道具の一つとして、多くの登山家、写真家に知られている。なぜそうなりえることができたか、と問えば、月並みな言葉ではあるけれど、佐久間さん自身の山や写真への思い入れがあり、山の友や写真の友からの真摯なアドバイスがあり、そして家族らの支えがあったからであろう。さらに言えば、徹底して自分で使い込み、自分で満足するまで諦めない、そんな製品づくりへのこだわりが、そうさせたのであろう。

「いろいろなアイデアをつぎ込むんですが、いいアイデアを製品化すると、他の会社がすぐ真似るんですよね。最近では、できるだけ特許をとるようにしていますが・・」

これは苦労話。

「ずっと登り調子だった売れ行きが、去年あたりから少し鈍ってきましてね。これからまた新しい挑戦を初めてみようと思っているところです。」

それでなくても重い荷に加えて中判カメラを2台携えながら厳しい冬山を登る。それを苦とせず、愉しみに変えてしまえるのが、登山家の登山家たる所以なのかもしれないと思いは至る。生きていくって辛いのが当たり前。だから、せいぜい楽しもうではないかと、それを言葉にせずに生き方で示してくれる佐久間さんのような「父」なる存在は、今や、決して多くはないと、その背中を見ながら感じ入った次第である。

99年5月、南アルプス赤石岳山頂に立つ佐久間さん。平地にいる時とは顔つきが違うような・・・

現webサイトはこちら

ザックやバッグにつく「部品」の数々が整理された棚。
型紙は佐久間さんが制作。通常のザックに比べると型紙も2倍近い点数になる。
型紙から縫い代を書き写しているところ。全てが手作りである。
手作りの型紙
ラムダのザックは、通常の登山用ザックに比べると3倍以上の時間が必要という。
美しい「山の写真」