世界中のあらゆる機械式カメラを修理する『ワタナベ・カメラ・サービス』

会社概要

1961年、京橋3丁目に開業し、3年後に銀座へ移る。ハッセル、リンホフ、ライカ、ローライなどの他、ありとあらゆる機械式カメラの修理専門店である。かつては木村伊兵衛、土門拳、林忠彦など、錚々たる写真家のカメラのメンテナンスを手がけていたことも。最近では、新聞社や通信社、広告写真業界の機材よりも、クラシックカメラマニアの機材修理が増えているそう。(取材当時)

酒の縁?

 銀座1丁目にあるビルの8階。看板一つあるわけでない。入り口のガラスに貼られたハッセルとライカのロゴ、そしてHATSUMI、WATANABEの文字でやっと、それとわかる一室である。ところが、取材に費やして頂いた数時間の間にも、幾人もが調子の悪いカメラやレンズを持ってきたり、修理を終えた機材を持ち帰って行った。

「独立した頃は、本当に商売になりませんでした。なんていったって、カメラがないんですから。もちろんカメラを扱っている問屋さんも仕事がない。暇なものだから昼間からうちに来て、何をするわけでもなし、寝ころがってね。ただ日が暮れるのを待っているんです。そして5時を過ぎる頃になると始めてごそごそ動きだして、何をするかっていうと、皆でなけなしの金をはたいて酒を買ってきてね、呑み始めるわけ。トリスが300円、ちょっとお金がある時は340円のトリスデラックスだった。」

 ちょうど私が生まれた年の頃の話である。話を伺っても、せいぜい貧乏だった学生時代を思い浮かべるのが関の山である。なんとなく理解はできても、体感として想像したり、ましてや共感したりするのは、不可能に近い。

「昭和38年に貿易が自由化されたんですよ。これを境に、外国のカメラが堰を切ったように入ってくるわけ。それからですね。でも、仕事がなかった頃の呑み友達たちが、よく宣伝してくれた。ほとんど彼らの力に支えられたようなものかもしれません。銀座に移った時のお金の工面だって、ずいぶん助けられたんです。もちろん、その後もずっと、ここで呑んでましたよ。毎日、10人くらいは来てたかなぁ。」

 ロッカーの奥から取り出してきた、氏のPANA通信社時代のアルバムを見せて頂いて、ちょっと嫉妬してしまった。マリリン・モンローがいて、ジプシー・ローズがいて、昭和天皇がいて、渡辺氏がいる。全て、モノクロのバライタ紙。そして、そこに写っている青年たちの顔つきに、物も金もないけれど、夢と仲間には事欠くことのなかった時代の面影を見た。溢れるほどの物と金。優秀になったカメラやレンズを使って、今、私たちは氏のこのアルバムに彩られた写真のイメージを超えることができるのだろうか、とも思った。

「仕事なんて選べる時代じゃなかったのですよ。目の前に仕事になりそうなものがあれば、それに飛びつくしかなかった。でも、今にして思えば、お酒を呑めたから、この仕事を続けてこれたようなものかもしれません。」

氏が長年眺め続けてきた机の上の30センチ四方。
手を伸ばすだけでほとんどの工具に手が届く作業場。
 1927年、北海道生まれ。旧海軍の特攻要員として終戦を迎える。北海道電力に勤務の後、上京し、PANA通信社のカメラマンとなる。'56年、日本におけるカメラ修理の先駆者として知られる貫井堤吉氏に師事。'61年に独立し現在に至る。
'66年より一緒に仕事をしている初見修一郎氏。
ビル8階の入り口。そっけないものである。
ハッセルブラッド者のディプロム(免許のようなもの)。
ハッセルの修理工具。販売されておらず、本社からの借用なのだそう。

体で覚えた技術

 世界中には、さまざまなカメラがある。しかし、機械式であるなら、何でも修理できるという氏の修行時代。

「貫井さんっていうのが、日本のカメラ修理の第一人者っていうか、先駆者なんです。そこに5年いました。もちろん無給です。しかも、教えてくれるなんてことは一切ない。技術は盗むものなんです。聞いて覚えた技術は忘れるけれど、苦労して身についた技術は忘れませんから。それでも当時、お弟子さんが40人くらいいました。今、一緒に仕事をしているハッツァン(初見修一郎さん)も、ここで育った一人なんです。」

 身体に染み込んだ技。しかし、やはり、修理の面倒なカメラとそうでないものがあるのではないかと、失礼を承知で聞いてみる。

「正直いって、安物のカメラのほうが難しいんです。作りがザツというかね。高級品の方がはるかに楽です。」

 ちょっと意外なようで、少し考えてみれば、当然のことであった。

「たいていの人は、カメラが故障してから持ってくる。でも、ちゃんとしたカメラマンというのは、一仕事終えたらオーバーホールに出すんです。さる高名な山岳写真家は必ず、山から降りてくると機材を全部セットで持ち込んでいました。だからそのカメラのホコリを拭き飛ばす度に、ヒマラヤやアルプスやマッキンレーなど世界中の山の匂いを吸ってるような感覚がしたものです。修理屋冥利につきるね。」

 いやはや、我が身を省みるとお恥ずかしい限り。次からはオーバーホールに出すことにしよう、なんて思っても、決してやれそうもないけれど。

「それでも、修理を受ける時は、いつでもいいですって言われるよりも、いついつまでって指定される方が気合が入るのです。例えば、午前中の仕事の最中にカメラが壊れちゃって、昼飯の間に直してくれっていわれたことがあってね。それで、時間どおり仕上げられるのは、本当に嬉しい。まあ、F1レースでいうなら、ここはピットのような存在なんです。」

 前言と比べるなら、少し矛盾のようにも思えるこの意識は、プロカメラマンの要求に応えるための、プロの修理屋の矜恃なのかもしれない。

「それから、朝までに直さなきゃならないカメラがあってね。それがまた難しい修理だったのだけど、夜が明けて空が白みかけてきた時になって始めて、カメラがジジジーって、完璧な音を出すようになった瞬間なんて。もう、言葉にならない感情が押し上げてきました。こんな風に苦労して直したカメラには、なんだか情が移ってしまって、お客さんに渡したくなくなります。できるだけ、お客さんには遅く来てもらいたいとさえ思うのです。」

 思えば、修理し調整を終えたカメラは、氏の頭の中でその内部が全て知り尽くされているのである。情が移るのは当然のはず。そして、これまた当然かもしれないが、氏は月に一度は必ず自身の身体の検査を病院で行っているという。なんといっても、指先の、慎重にも慎重を期す仕事である。だがしかし、後進を育てることには関心がないと断言する。

「我々の今の仕事は、残務整理のようなものなんです。カメラの電子化がいくら進んでも、機械式カメラの修理屋は無くならないでしょうが。既に40年以上、机の上の30センチ四方を眺め続けて仕事をしてきたのです。そして、今でも、仕事を終えた後には、十分な充実感があります。私は、それだけで満足なのです。」

 カメラを使って仕事をしている者の一人としては、寂しいことこの上ないのだけれど、一人の人としてみれば、とても幸福な人生のように思える。正直、羨ましい。

何に使うものなのか、伺うのを失念。
お宝も・・・。
お酒も・・。
PANA時代の渡辺氏。当時の映画俳優のよう。
なんか、かっこいいんだなぁ。
氏のアルバムから。右のジプシーローズは、渡辺氏が撮影したもの。
さまざまな工具。