自らが「遊ぶ」ためのカメラを、自らの「手」で造り続ける『横木製作所』

製作所概要

 正直なところ製作所というよりも、普通の一軒家の二階の二部屋であって、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、この二部屋こそが、さまざまなカメラの揺り籠であったのだ。35ミリ一眼レフでアオリ操作ができるアクセサリーや、以前紹介したワイズ69ハンディカメラは、つとに知られている。ただ、「横木製作所」という名前がついていないだけなのである。(取材当時)

写真館の頃

 氏が22歳の頃といえば、1937年。前年には二・二六事件が勃発。まさに太平洋戦争前夜といった時代である。

「富士吉田で写真館をやってたんだ。登山しに来る人の写真を撮るわけ。一カ月くらい平気で風呂にも入らない、汚い生活でさ。でも、儲かったねぇ。」

 そもそもからして、違うのである。私の時代の感覚とは。

「それから2年で東京に戻ってね。カメラ会社。表向きは、軍需用品としてのカメラなんだけど、裏ではね、遊び用の35ミリカメラを作ったりしてた。それから、戦争でしょ。カメラどころではなくなって、写真館をまた始めたんだ。

 紀元二千六百年記念祭('40)では、偉い軍人さんの写真を撮り回ったねぇ。雪が舞う寒い日なんだけど、僕たち写真屋が来るまで、彼らは直立不動、身動き一つせずに待ってるんだな。一般人が、将校や大将を待たせてんだから、凄いものさ。もちろん撮影は真剣勝負。冠布で汗を拭き拭きしながらね。

 でさ、大将が持っているサーベルに、なんとかして触ろうと思ってさ。普通じゃ死んでも触れないシロモノだ。だからね「閣下、もっと胸はってください」とかなんとかポーズ指導のついでにさ、チョチョッとね。」

 なんなのだろうか? 反骨というのでは無論ないし、バイタリティといえば軽すぎる。真剣ではあるけれど、生真面目ではない。骨太な精神の持ち主ではあるけれど、繊細に遊ぶ技術も身につけている。人としてのスケールが違うといってもいいが、目の前で軽妙に話を続けているのは、長い白髪を肩まで垂らした小柄な一人の老人である。

なんだろう?
横木正夫氏プロフィール
 今年86歳の、'1915年福島生まれ。18歳で上京。品川にあった東京写真学校で乾板を使った密着焼きの写真技術を学ぶ。以後、写真館をやったり、カメラ会社でシャッターの製造を行ったりなどなど、とにかくは波瀾万丈の愉快な経歴である。
ワイズ・ハンディ69。
ハンザ・フィールド35。
なんだろう?

この世に作れないものはない

 しかしまあ、出てくる出てくる。押し入れの中から、棚の上から、本棚の隅から、氏がかつて作った、そして現在も作り続けている幾多のカメラやフィルムホルダーが、出てくる出てくる。

 そして話を続ける端から、摩訶不思議なことに、数々のカメラやフィルムホルダーがちゃんと元の場所に片づけられていく。だから、炬燵ほどの小さな机の上は常に、一定数量の品だけが残っているという案配なのである。

 ははあん。と思う。

 物づくりの名人とは、往々にして片づけ名人なのである。

 おそらくは、氏の脳味噌の中でも同じことが繰り返されているのであろう。人が見たらなんだか分からない分類の仕方ではあるだろうが、さまざまな素材がありとあらゆるところから引き出され、最適な道具で念入りに仕上げられ、そしてまたどこかに片づいてく。そんな感じがするのである。

「カメラってのは、それを使った経験のある人が作らないと、本物じゃないんだ。私は何でも私の必要で作ってきたからね。中判で47ミリのレンズを使ってアオリができるカメラは、結局20年もかかっちゃった。蛇腹の工夫がね。」

 あるいは、
「写真機ってのは、遊ぶために作るんだ。今、この手の中で、この世にない新しいものができるかなぁ、とワクワクしながら。そして、それができたと思った瞬間、ニヤァーと一人で笑う。」

 そしてまた、
「物づくりってのは、作っているうちが面白い。完成したら、残るのは金勘定だけだからね。全くもって詰まらない。でもさ、いろんな人がここに来てさ、いろいろなことを教えてあげたりするとね、なんかもっともらしい商品になってるんだな。」

 さらにまた、
「作りすぎちゃったんだ。もう作るものがなくなるくらい作ったから。この世に作れないものはない。この部屋にないものはない。名前なんて要らないんだよ。私が死んで300年くらいした時に、きっといい値がつくよ。」

 うむ。今でこそ一般的になったが、写真入りの名刺は氏が30年以上も前に創案し、作ったものである。白黒の印画紙に焼き付ける名刺で、これはよい商売になったとか。厚さ5ミリほどしかない薄手のキャビネ判フィルムホルダーも氏が作った。キャビネ判フィルムを半分にカットしたものを使い、4枚の証明写真が連続撮影できるフィルムホルダーもそう。密着焼きの機械にタイマーを組み込んだのも、ピントグラスとフィルムホルダーを瞬時に切り換えることができるクイックチェンジャーも氏の作品である。写真とは関係ないけれど、『無信号交差点の構造』は、'72年に公開特許となっている。

 無限といっていい創作意欲。

 でも、やっぱり正直なところをいえば、よく分からない人である。

氏の作業机。ここでカメラができあがる。
唯一といってよい工作機械、ボール盤。
蛇腹も氏の手折り。47ミリレンズでアオリができる。
『無信号交差点』の模型。
『無信号交差点』の特許と実用新案の公報。

写真の時代よ、どこへ行く?

 普通なら工作機械に頼るところを、何でもヤスリ一本で作っちゃうような人だから、と氏を紹介してくださった方から聞いた。まさか、全てをヤスリ一本で作っているわけではないが、確かにそんな人である。

 なんなんだろう、この人は。と考え続けているうちに、江戸の武士のイメージが脳裏をよぎった。江戸の武士といっても、「武士は食わねど高楊枝」とか、アルバイトがてらに番傘を作っているような、決してカッコヨクはないイメージなのだけれど、どことはなしに横木氏の風貌とそれが重なって見えた。いや、そうではなくて野武士とか山伏のほうが的確かもしれない。無論、深い意味はないのだが。

「長く生き過ぎちゃったんだ。写真館やって最高に景気のいい時代も経験したし、それが今のような電気の時代になって、私など必要とされていないかような経験もしている。時代が変わっちゃったんだね。一枚の写真に命をかけてた時代から、何十枚も何百枚も撮って選ぶ時代にね。」

 などと言いながらも、この人はハツラツとしている。やはり、分からない人である。

かつての横木写真館。
若かりし頃の名刺。