営業写真館を土台で支え続ける『ボッシー』

会社概要

 正式社名は、弥生精工株式会社。営業写真館用カメラスタンドのメーカーとして知られる。都内のホテルの結婚式場のほとんどに納入されており、国内シェアもトップクラス。金物加工業としてのノウハウを活かし、特注製品にも対応。ユニークな製品として、全国の警察署に配備されている被疑者撮影用カメラスタンドもある。「リボルブ・アダプター」は最近のヒット作。。(取材当時)

古き良き時代

 素直に告白しておくと、ここには書けない内容ばかり聞かされたような気がする。無論それは私の文章能力を超えているからなのだが、少し違った視点から眺めてみると、ここ数十年、きわめて安定していたかのように見える写真業界、とりわけ営業写真館業界そのものの地殻変動の一端を、目の当たりにさせられたということもできる。

 だいたい「私など、歳も歳ですし、先がないですからねぇ。」などと口火を切られて、その後に語られるだろう業界の裏話が、面白くないわけがないのである。しかし、これは書けない。

「もともとは、弟がやっていた金物加工業。当時は、マミヤやコニカのカメラ部品を作っていました。巻き上げ軸やシャッターローラー、レンズ部の平行調整ネジなどですね。その後、輸出用のズーム単眼鏡を作りましたね。ドイツのクエレっていう商社からの発注で、レビューというブランド名で売っていました。うちで組み立てて、検査協会の検査に出して輸出。これが、本当によく売れた。現在でも使っている会社のマークのS.T.C.は、この頃の名残でしてね。渋谷・テレスコープ・カンパニーの頭文字なんです。」

 門外漢の一人として、こういう話は好きである。何はさておき、仕事は生きるためであって、そのためになら何でもやる。そして、決して豊かとはいえない地平から飛翔していく人生の物語。'60年代始め。高度成長期への扉を開こうとしていた日本の社会的背景は、多くの人々にそのチャンスを与えたはずである。

渋谷 巌氏プロフィール
 1932年、東京生まれ。旧制中学在学中に、疎開で秋田県へ。後、銀座の瀬戸物屋「陶雅堂」に15年勤務。次いで、肉屋の手伝いを数年。そして、実弟が経営していた金物加工業「弥生精工」に。目眩のするような人生である。
営業写真館用カメラスタンドのスタンダード。BOSSY バーチカル。

写真館の歴史と人生と

「カメラ用スタンドは、他の会社の売れ残ってしまった製品を修理するという話から始まったのです。どうせ修理するなら、根本からやり直さないと駄目だと決断して、全く新しいスタンドを設計製作しました。当時、7万5800円でしたね。他の会社のスタンドが値引き販売をする中、うちのはほとんど定価で売れました。それだけ自信もあったし、実際の信頼性も高かった。」

 時代は、モノクロ写真からカラー写真への大転換期であった。レンズやカメラが多様化し、従来の三脚では対応できなくなった現場は、重量級のスタンドを強く求めていた。作れば作るだけ売れる、そんな時代の到来である。

 だがしかし、渋谷氏の経歴には、現在の会社以外に機械設計を想像させるものは一つもない。全て、見よう見まねの独学である。そして現在でも、別室にあるドラフターの前で、新製品の図面を引く。信じるべきは、自分の腕一つ。

「'85年の暮れでしたか。韓国の写真館からの注文がありましてね。輸出第1号といいたいところですが、輸出の許可がうまくとれないものですから、これは手荷物で運んだのです。一台の重量は、70キロ。それを一人でね。向こうの税関で引っかかりまして、着いたはいいが持ち出しができずに大変でした。」

 総金属製の重量級スタンドである。もちろん、パーツ毎に分解し、現地で組み立てるのだが、現在の意識からすれば非常識もいいところ。ただ、この無謀とも言える労苦は、韓国での爆発的なヒットという形で報われる。

「その写真館で非常に気に入ってくれたんですね。そのお店自体も成功した。そしたら後は皆、右へ習え式なんでしょうね。」

 確かに、当時売れた製品台帳のどのページにも、韓国の文字がずらりと並んでいる。国内シェアだけでなく、輸出においても、一つの頂点を迎えていた時期なのだろう。

「この頃に、残すべきものを残しておけばねぇ。」

 少々自嘲ぎみに語る氏である。が、しかし、そう語るだけの頂点を経験できた事実こそは、もはや我々の世代とは違うのかもしれない。
「いい時期を青年期、壮年期に過ごし、今、老いを感じる頃になって、業界全体が地盤沈下を起こしているわけですから、本当に私の人生とこの業界とが重なっているようにも思います。」

 しかしそれでも、やらなければならない仕事がなくなったわけではない。

リボルブアダプター。カメラ底面からレンズ光軸の長さに合わせた各種タイプ有り。耐久性にも定評がある。
カメラを縦位置にした状態のリボルブアダプター。
本社。一階が工作室になっている。
各種工作機械がところ狭しと並んでいる。
数々の製品を生み出してきたドラフター。

今は、思考の転換地点

「スタンドに関していえば、作れば売れる時代から、いらない時代になりつつあるのです。少し前は、中判や大判カメラで撮影する前のテスト撮影用にデジタルカメラを使っていて、そのための機材も数多く作りました。しかし、今や、軽量なデジタルカメラで用が足りるのですからね。」

 もはや抗いようもない、デジタル化という名の潮流である。この潮流の真っ只中にあって、銀塩カメラへの郷愁を胸にデジタル化への疑問を呈したところで、何がどうなるわけではない。そして加えるなら少子化があり、結婚式自体の減少もある。構造不況にテロ不況という現実も、暗雲の如くに覆いかぶさっている。もう一ついうなら、写真というメディアに対する人々の認識が、大きく変わろうとしている現代なのである。先行きなど、誰にも読めるはずがない。

「もはや、写真という枠にとらわれることはありません。もちろん、ノウハウはありますから、医療用や立体撮影用などの機材の開発も手がけています。しかし、これから先、環境問題を軸にした製品なども始める予定です。金物加工業としてできることを、今こそ考えていかなければならないのです。」

 立ち止まって考える余裕など、もしかすると我々にはほとんど残されていないのかもしれない。と、ふと思う。芸術のための芸術という言い方をもじっていえば、写真のための写真、あるいは仕事のための仕事ができた時代は、もはや遠くに過ぎ去ってしまった幻想の一つなのかもしれない。

輸出用の単眼鏡。ズーム付きである。
数えきれないほどの図面。
大手写真館に採用された写真と表彰状など。